アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

疑問に思ったことを聞いただけなのに、怒られがち

やっちまった。

どうやらこのダブルコンボに、それまでの話の流れを把握していなくて論点がずれているというのも加わって、トリプルコンボを踏んでしまったようだ。

反省している。実は、この手の怒られが発生したのは、一度や二度ではない。失敗を繰り返さないために、なにがどうなっているのかを考えるのが今回の記事である。

なお、ぼくは人が口から出す(あるいは体で表現する)「ことば」と、頭の中にある「考え」を分けて考えている。 怒らせるつもりがなかった、傷つけるつもりがなかったとしても、口から出たことばが問題なのであって、どういうつもりだったかは(他者には観測できないので)関係がない。 思いやりを持ちましょう、敬意を持ちましょうみたいな、そういう外から見えない部分にはあまり興味がない。思想・良心の自由は人間の権利だからだ(憲法でも保障されている)。

はじめに:人間がわかりたい

ぼくはコミュニケーションに苦手意識がある。と言うと「えぇっ、そうは見えない。話しやすくて人当たりいいのに」と言ってくれる人がいる(お世辞なのか本心なのかは分からないが)。

苦手なのは、ふと思いついた疑問を言っただけなのに、メチャメチャ怒られたり、傷ついたと言われたりすることがあるからだ。たいてい、そういう人には、失礼な奴だと思われて嫌われてしまう。 どうしてそうなるのか分からなければ対策のしようもないが、傷ついたり怒ってたりしている人は何が悪かったのかいちいち細かく教えてくれないものだ。 そういうわけで、コミュニケーションに苦手意識を持つようになってしまった。 ぼくがこうやって書くことすら、被害者面して? 開き直りか? と思われている懸念まである。

一方で、ふと思いついた疑問を言っただけなのに、「鋭いねぇ」とニコニコされたり、面白がられたり喜ばれたりすることもある。そういう人と話すのはとても楽しくて、コミュニケーションへの苦手意識が薄らぐことがあるのも確かだ。ぼくは、こういう人の存在に支えられながら生きている。

人間がわかりたい。人を傷つけたくない。もっとコミュニケーションを楽しみ、人を手伝いたい。

「人間を理解したい」「ひとのことばがわかりたい」というのが、言語学(特に語用論)を勉強しようとする動機であり、これからどんどん勉強していかねばと思うところではあるが、2年ほど前から今までの観察による仮説と対応策を書いていこうと思う。

コミュニケーションに悩んでいる時、人間が分からない時、人間とコミュニケーションする機械を設計する時に、お役に立てれば幸いである。このテーマに関する議論も歓迎なので、Twitter で気軽に話しかけてください。

仮説:2つの文化

なにがどうなっているのか、ということを観察して考察し、まずひとつ分かったことは、文化が違うらしいということである。今回はその話をする。 文化と言っているのは、コミュニケーションにおける暗黙の了解とかみんなが共有している前提みたいなやつ。

仮説: ぼくがふと思いついたことを言っただけなのに、怒ったり傷ついたりする人たちは、

  • 善悪と正誤を混同している(誤ったことを言うのは悪である)
  • 矛盾点を指摘されると、非難されていると感じる
  • 論理の破綻の指摘は、主張への反論である
  • 意見に反対することは、相手を軽んじているということ
  • 議論は勝つか負けるか

逆に、こういう人たちもいる:

  • 善悪と正誤は異なるものだ(誤ったことを言うことは誰にでもある)
  • 矛盾点を指摘され、解消されれば、理論がより良くなる
  • 論理の破綻の指摘したとしても、主張に反論しているとは限らない
  • 意見に反対することは、ただ反対の意見を持っているというだけ
  • 議論は協力して行うもの

人間には、「なんで?」が「あなたは間違っている」という意味だと思っている人たちと、「もっと詳しく説明してくれ」という意味だと思っている人たちの2種類がいる。

この違いは、文化の違いとしか言いようがないと感じる。文化とは、集団を構成する人間が共通して持っている行動様式であり、ここではコミュニケーションにおける暗黙の了解とかみんなが共有している前提みたいなやつを指す。それの違い。どっちかが優れていると言いたいのではなく、ただ2種類あるねってだけ。

物理屋には後者の文化があり、ぼくはそこで議論する手法を身につけた気がするけど、物理の人でもこの文化を持っていない人もいるかも知れないし、他の業界でもこういう文化があるかも知れない。 んー、でも、この手の怒られは大学以前にも発生していた気がしなくもないし、その辺りはちょっと分からないな……

※ 今回は、「なんで?(もっと詳しく説明してくれ)」とぼくが言い、相手に「文句あるのか?💢」と怒られたり傷つかれたりした話をしている。しかし同じメカニズムで、「なんで?(あなたは間違っている)」と怒っている人に対して、ぼくが詳しく説明してほしいんやろなと思って詳しく説明してしまい、火に油を注ぐ結果になることもある。

対応策:謝って、敵意がないことを示す

まだ相手のことがよく分かっていない段階で、その人がどちらの文化を持っているのか予測するのは難しい(人を見るのが得意な人にとっては簡単だったりするんだろうか?)。 また、同じ人でも、場所とトピックにより、どちらになるかが変わる可能性もある。例えば、波動関数について話すのと、失恋経験の話をするのでは、矛盾点を指摘された時の気持ちが違うかも知れない。

自分の議論に対する態度を、自己紹介みたいに、前もって明らかにしておくのがいいのかなと以前は考えていたが、おそらく無理だろう。というのは、他者の文化というのは、パッと説明して簡単に理解できるようなものではなく、浸ってみないと理解できないと思うから。 それだけでなく、こちらの文化をあちらの文化の人に紹介するだけならまだいいが、押し付けているように感じられたらよくない。

安全のためには、大多数の人々は前者の「矛盾点を指摘されると、非難されていると感じる」人々だと思っておくほうが良いだろう。 ここは、まず歩み寄るべきで、問題点を指摘したり「なんで?」と聞いたりする前に、「おっしゃる通りです」「それは辛かったですね」などと賛同や共感の意を伝えるのが先だ。そうすると相手は「ああ、この人は敵じゃないな」と思ってくれるだろう(たぶん)(たぶんね)。ここが、衝動が強めの人には難しいところなんだけど。

衝動的にやっちまった時。メチャメチャ怒られたり、傷ついたと言われたりした時。 相手はビビっているかも。いきなり殴られた、敵だ、守りに入らねばと思っていると感じているかも知れない。 相手がこちらと同じ文化を持っているだろうという予測が外れたのだから、軌道修正する必要がある。とにかく謝り、敵意がないことを示す。

「誤解を与える表現でした」みたいなのはアカンねん。「私の言い方が悪かったです。申し訳ありませんでした」「いきなり突っ込んだ質問してすみませんでした」って。相手は殴られたと感じているんだから。謝る。議論は勝ち負けではないし、間違えることは誰にでもあることなのだから、謝って非を認めることは恥ずかしいことではない。

※ なんで「誤解させてすみません」がアカンのかっていうと、「てめえが誤解したんやろが」って逆ギレしているように感じられる懸念があるから。基本的に謝罪する時、主語を相手にしたらアカンねんて、めっちゃ人当たりええ営業マンはんが言うてはった。謝罪って語用論的な側面からよく見てみたい対象やなあ、また今度な。

メチャメチャ怒っていたり、傷ついたと嘆いたりしていた相手も、こちらがちゃんと謝って、傷つける意図はなく言い方が悪かっただけだと分かったら、礼儀正しい人なら「ああ、ちょっと言いすぎたな」「敵認定して悪かったな」って気まずくなると思う。礼儀正しくない人は、知らんけど。

会話の文化の違いで、どうにもならないなと思ったら、身を引くのも手だ。戦略的撤退。疑問点が残ったとしても、あとで他の人を見つけて議論すればいい。

今後の課題

あちら側の文化の話

もうちょっと深くみてみたい。

指摘や疑問を否定だと捉えるのは、どうしてなのか

人は、自分のものに愛着がある。口から出たことばや、作ったものや持っている物は、その人の一部のような気がしている。自分の一部を否定されたら、自分の全体が否定されたように感じるのではないだろうか。

相手を従わせたい、自分が優れていることを示したい人が、その手段として議論を使う。「はい論破」とかって力を誇示するセリフがあるし、親や教師が子どもをしつける時に「どうして〜できないんだ」と言う。相手の意見の矛盾点を指摘したり、疑問を呈したりすることが、相手を従わせたり自分が優れていることを示す手段になるようだ。

論点をずらす、重箱の隅をつつく

論点をずらすと、何ができるんだろう。重箱の隅をつつくということは、何を示しているのか。真面目に取り合わないことで、軽蔑の意を示そうとするのかなと思った。知らんけど。

殴り合いというメタファー

「議論は勝つか負けるかだ」「論理で殴り合ってキャッキャする」という比喩を用いた。

さっきまで議論していて(殴り合っていたのに)、仲良く食堂に昼ごはんを食べに行ったというような状況。聞いた話によると、白熱した議論は、議論文化を持たない人から見ると怖く見えるらしい。協力して行う議論は、スポーツのようなものだと考えると理解しやすいだろう。

人から言われたことばで傷つくっていうのも、ことばの持つ力だよな。

謝罪とその周辺

上に書いたが、基本的に謝罪する時、主語を相手にしたらアカンねんて、めっちゃ人当たりええ営業マンはんが言うてはった。

謝罪をする時に何を言うべきなのか、謝罪を受け入れる・受け入れないというのは何が決め手なのか。

反省しているとか、意識が相手に向いているかどうかとかいう表れてこない部分には興味がない。思想・良心の自由は人間の権利だからだ。

形式の部分はどうなっているんだろう。有名人が失言して、謝罪をしたとき、謝罪に納得しない声を聞くことがある。

実用的な話でもあるし、興味深い。

おわりに

一日かけてつらつら書いたが、どうもまとまりのない文章になってしまった。仮説の部分は特に冗長だし、もっとスッキリ完結に書けそうなものだ。頑張って読んでくれた方には申し訳ない。勉強して整理します。

たまに、ごくたまに、すごく深いところまで突っ込んだ質問をしてくるのに失礼な感じが全くない、もっと話したいと思わせてくれる人がいる。どうやってるんだろうな。弟子入りしたい。