アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

ぼくと女性とディスフォリア

気持ちいい結論や解決がある話ではなくて、最近こんな感じでーすっていうブログ記事。ここ数日、生活を回すのに失敗している。職場の人には体調悪いですって言ったけど、頭の調子が悪すぎる。

頭の調子が悪い原因には、発達に関する不具合(ADHD的/自閉的な脳みその使いこなせなさ)もあるし、性別に関する不具合(ここで書く話)もあるし、このふたつの原因は互いに関連しあっているものだとも思う。

性別、難しいんだよな。わからないことだらけなんだ。

 

まず、フェミニズムを怖がっている話。フェミニズムに限らないんだけど、男性が男性について話すときでさえ、フェミニズムの影響はでかい。

女性に関するなんらかの説明を読むと、 「ああ、まわりの人がぼくにかくかくしかじかと言った理由がわかったぞ」「あれは女性として扱われてたってことだったんだな」「こんなことが期待されてたんだな」というようなわかりを得ることがある。

(差別的なものではなくても。社会がどのように回っているか説明するものや、差別に反対したり、女性たちが自信をもってやっていきましょうというものでも、そう)

たとえば、前職で「チームに女性がいると助かるわね、男性達は整理整頓しないから……」というようなことを、他のチームの、女性っぽい見た目で、女性性のプライドを持つ人に言われたことを思い出す。(「ファイリングは新人の仕事って新卒のときに鍛えられたので」みたいに答えたら困惑されたが、)あの人はぼくを褒めていたんだな?と後になってわかったんだけど。

でもあれって、一見古臭い性別役割意識に見えるけれど、実はそうじゃなくて、一周まわっていて、ポスト・フェミニズム的な女性の活躍戦略だったりするのでは?というようなことを、ポスト・フェミニズムというアイデアを得たときに思い出したりする。

なにかを学ぶことは楽しくて、わかりは爽快だ。

しかし同時に、ここで、「あの人はぼくのことを女性だと思っていた(女性とアイデンティファイしていた)」という経験のわかりもくっついてくる。

ぼくは自分のことを女性だとは思っていない(女性というアイデンティティはない)。そして、まともな人間のふりをするには、ぼくを女性に分類する周囲の声に応えて女性のふりをしなければならないと思って、頑張っていた時期もあったが、できない(無理)なことがわかった。

だから、わかりの瞬間に、「違うんだよ。できないんだよ!」と悲鳴をあげてしまう。恐怖がある。(これはジェンダー・ディスフォリアだと思う)

ジェンダー・ディスフォリアについて、三木那由他さんの説明でかなりのわかりを得た。

追記:さきほどの例の「あの人はぼくのことを女性だと思っていた」というのを少し分解すると、「Pさんは『自分は女性なので整理整頓が得意であり、自分の女性的な能力を活かしてチームに貢献しよう』という動機で行動した」として好意的に評価されたのだろう、ということだ。(2022/08/21)

 

わかりの爽快さは気持ちいいので、ついついジェンダーに関する説明を読んでしまう。そのときに思い出したり新たに発生したりする経験的恐怖はストレスで(特に、精神の)健康に悪い。

じゃあ、やめればいいじゃないか!という気もする。ジェンダーに関する説明を読んだり、考えたりするのをやめればいいじゃんか。

……え、わからないことだらけの世界で生きていくの、無理でしょ。考えずに生きれるようには、できてないんだ。

 

解決策。

  1. 悲鳴を上げない強さを獲得すること。なんらかの覚悟、開き直り?態度を決めること?どのように得られるのかはわからないが、クィア理論が助けになるかもしれない。
  2. まわりの人のぼくに対する発言や扱いを変えること。ぼくの見た目や声や書類上の性別を女性じゃなくすること(性別移行)。

これまで前者を追い求めてきた。が、後者にトライしてみてもいいのではないか?という気がしてきた。(前者と後者は必ずしも矛盾するものではないかもしれない)

 

ぼくが自分の性別をノンバイナリーだと言うとき、「自分の性別は男と女のどちらかには当てはまらない」と言ってきた。ある意味、その他ボックスに放り込むことで、保留でもある。それをより厳密に詰めていくと「自分のことを女性だとは思っていない」と比較的強く言えるが、「自分のことを男性だと思っていない」とは言えないのでは?という気がしている。

たぶん、男らしくなりたいけどろくでもない男にはなりたくないみたいなところがあるんだと思う。最近、『新しい声を聞くぼくたち』(河野 真太郎) を読んでいて、その思いを新たにした。

そのまえに、「自分は自分のことを男性だと思ってます」って自信を持って言える必要なんて全然ないんだね、みたいなことを 『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(周司 あきら) を読んで思った。

実際まわりの人を見ていて、(先に述べた女性性を自分のプライドとして持っている人のように)「自分は自分のことを女性だと思ってます」と言いそうな人はいる。友人と飯を食いに行こうという話になって、苦手な食べ物ある?って聞いたら「おれは何でも食える男だ」と言っていて、「ワォ、男なんだ」ってなったこともある。

一方で、「まあ、生まれたときにそうだったから、デフォルトのままやってる」という人もいる。みんながみんな、確固たるジェンダーアイデンティティを持っているわけではないんだよね。

 

性別ってそういう、なんとなくでやってる部分を含むところがありそうなんだよな。気分よくやりてえな。

気持ちいい結論や解決がある話ではなくて、最近こんな感じでーすっていうブログ記事。おしまい。