アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

「ある」んだよ〜を楽しむというのが、ある

共同研究者と、野次馬やコレクター的な精神をもって自分らを含む人間たちや(広い意味での)文化を見ることについて話していた。ブログ記事にしてねと言われたので、書く。

これは善悪ではなくて、主観的な楽しさの話だと思っているが、善悪からは自由になれないかもしれない話でもある。

この話を書くことにした経緯

ツイッターのフォロワーが、婚活や交際相手を探す活動において、政治観や信仰、通院歴について話すタイミングが難しいと書いていた。それを見て、そうだよな〜! そして私は早い段階でひとつクリアできて幸運だったな〜 と思い出し、書いた。

ツイートを書いたあと、当時のデートの相手で、現パートナーである「共同研究者」(以下K)とこの件に関して話した。思ってたよりも全然複雑な話だった。書いて!と言われたので、書く。話したこと以上のことも書くと思う。
(見る人によっては、惚気話に見えるんだろうか、「ご参考まで」的な話として書きたいが、うまくいかなかったら、ごめん)

木々を見上げて撮った写真、中央のモミジが赤く、周囲の木々の葉は緑色で、赤と緑の対比がきれいだった。空は白く曇っている。
箕面の紅葉 (2019/11/17)

ほぼ初デートで山の神様の話を聞いた

関西にある滝と遊歩道が有名な観光名所に行った。帰りに遊歩道を歩いていたら、突然雨が降り出した。我々(私とK )は傘を持っていなかったので、近くの土産物屋に飛び込み、店に並べてある焼き物の皿などを見ながら、雨が止むのを待つことにした。

しばらく見ていると、店員のおばあちゃんが話しかけてきた。おばあちゃんは、山の神様の話をした。山開きの儀式をとり行うと山の神様は虫たちに人間に悪さをしないよう言って聞かせる、閉山したあとの山に入ると山の神様の怒りに触れる……などなど。それから、山で野犬に追いかけられたら、野犬に向かって傘をバッ!と開くと、驚いて逃げていくという、山の暮らしの知恵も教えてくれた。我々は、はぁ、ふむふむ、そうですか、と聞いていた。そうこうしているうちに雨が上がった。少しお土産を買って、店を出た。

帰りのバスの中で、Kがぽつりと「山の神様なんていないよと否定していたら、山の神様を信じる人はいなくなっちゃうんだよね」と言った。そのとき、いまいち真意が掴めなかったが、なんとなく、「この人とは話ができそうだな」と思った。
バスが駅に着いて、我々は喫茶店に入った。そこでKに「お付き合いしませんか」と言われ、承諾した。「話ができそうだな」と思ったのが、かなりの決め手だった。

「話ができそうだ」

時を現在に戻す。冒頭のツイートの話をすると、Kが、実はピジェが自分のどこが好きなのかよく分かっていないと言った。それでも10年近くも関係が続いているのだから、笑ってしまう。(いや、説明しない私が悪いのかもしれない)

「話ができそうだ」というのは、どういうことだったのか。当時の感覚を思い出しながら説明しよう。

当時、Kと私は物理の大学院生だった。理学研究科にいそうな、「よくいる理系の人」を想像すると、いわゆる「非科学的なもの」を敵視し、科学的な説明で相手を説得しようとする人がいる。あるいは、「アホか笑」という態度をとる人もいるだろう。Kはそんな感じではないんだなと少し驚き、好感を持った。

また、「神様」というような、宗教的なものに対する「よくいる日本の人」の反応もある。実は、私の親はある宗教(日本では信者が人口の1%しかいない)の熱心な信仰者で、それ関連の仕事をしている。言い換えるならプロの宗教家だ。私がその宗教を信仰していなかったとしても、家族の宗教については交際相手には話しておかなければならない。そう思いつつも、話を切り出すタイミングに困るものだった。

私がKと出会うかなり前、18か19歳のころに交際していた人(以下R)の話をする。 ある日、私は意を決してRに「うちの親、〇〇教なんだよ」と話した。そうするとRは「そうなんだ、そういうの偏見ないよ」と答えた。私は困惑し、「こいつはダメっぽいな」と感じた。「偏見がないなら、いいのではないか」と言う人はいるだろう。当時まだ18か19歳だった私には、何がダメなのかうまく説明できなかった。

その後、色々考えた。Rが「偏見がない」と言えるのは、他人事だからだ。交際が続いたら、いずれRを親に紹介するかもしれないし、Rが私の家族になるかもしれない。そのときには、R自身の信仰が問われる。さらに、他者の信仰に対するRの態度も試される。他人に「信者の家族」として扱われることもあるかもしれない。だから、他人事ではいられないはずだ。「自分事」として捉えなければ、この先うまくいかないだろう。そのように説明すればよかったのかもしれないが、当時の私にはできなかったし、その後、まあ色々なことがあり、Rとは別れた。

少し前に、「よくいる理系の人」の中には、いわゆる「非科学的なもの」を敵視し、科学的な説明で相手を説得しようとする人がいると書いた。こういう人も、熱心な宗教家である私の親とは相性が悪いかもしれない。たとえば、私の架空の交際相手(以下wkk、watashi-no kakuu-no kousai-aite)が、私の親に会ったときに「神なんていう観測も証明もできないものを信じるのはおかしい」などと言ったとする。相手はプロだ。そう言われてしどろもどろになるなんてことはなく、なんらかの回答を用意しているだろう。一方で、wkkは神についての議論には不慣れかもしれない。wkkのプライドがズタズタになって退散することになったら、かわいそうだと思う。どうなるかは、わからないが。

話をKに戻す。「山の神様」に対するKの態度は、「非科学的なものを信じるのはおかしい」や「偏見ないよ」のどちらとも違いそうだと思った。そんなわけでKに対して「どうやら話ができそうだな」と感じたわけだが、当時の直感は当たっていて、10年ぐらい経った今でも、「話ができて助かるな〜」と思っている。(し、Kは私の親とも仲良くやっていて、助かっている)

山の神様、厨房に入らず

帰りのバスの中で、Kがぽつりと「山の神様なんていないよと否定していたら、山の神様を信じる人はいなくなっちゃうんだよね」と言った。

先日この件に関してKと話したとき、あのとき何を言おうとしていたのか尋ねた。私はふんわりと「話ができそうだ」と感じたものの、Kの話をあまり理解できていたわけではなかったからだ。現在のKは、「根本には、異なる考え方を知るのが楽しいというのがある」と答えた。たしかに、山の神様の話は、理学部/理学研究科の研究室ではなかなか聞けるものではない。貴重な体験だったと思う。

Kはそれから、学生時代にアイルランドに短期語学留学に行ったときの話をしてくれた。留学先ではホストファミリーの家に住み、昼間は学校に通い、夜は家に帰ってご飯を食べ家族とおしゃべりする生活をしていた。あるときKは日本の「男子厨房に入らず」という文化を紹介した。Kの実家のお父さんは亭主関白、お母さんは家事をきっちりやるプロ主婦という感じで、実家では「男子厨房に入らず」が採用されていた。「男子厨房に入らず」について、ホストファミリーのお母さんは「セクシズムだ」と批判し、お父さんは「そんなに単純ではないのではないか? よその文化について自分は判断できない」と話したそうだ。Kはそれを聞いて、それぞれの人たちの人生の歴史を感じたという。

人生の歴史。「セクシズムだ」と言ったホストファミリーのお母さんは、ロンドン生まれでパリで暮らした経験があり、今はアイルランドで暮らしている。そのなかで現代の国際的な人権感覚を持つようになったのだろう。一方でホストファミリーのお父さんは、アイルランドの文化的政治的状況の(カトリックとプロテスタントの宗教的な対立、独立とイギリスとの連合の政治的な対立がある)なかで育ち、異なる考え方を持つ人々との共存を重んじるようになったのだろうということだ。Kの実家の両親とは異なる考え方を持つ人がいて、異なる人生の歴史があるとわかった。そういうのを知るのが楽しいと感じ、将来海外で働きたいと思うようになったそうだ。

なるほど。たしかに、山の神様について話すおばあちゃんに対するKの考えや、「異なる考え方を知るのが楽しい」とKが話すことにも、実家の両親や留学の経験という歴史的背景があったのだとわかる。

私も、こういう話を聞くのが楽しい。そして一緒に楽しめることが、私にとって「色々と深い話ができて助かるな〜」のなかには含まれているのかもしれない。そして、私のそういう楽しみ方にも、歴史的背景が関係している。というのは、私の実家の中で当たり前とされている神中心の価値観が、学校や友達の家で当たり前とされている価値観とは違うために、自分がどうすればいいのか、ずっと考え悩んできたというものだ。

多様性は「ある」んだ

Kは、異なる考え方を知るのが楽しいと話した。私もそう思う。しかし、「海外で異なる価値観に触れ、多様性って大事だなと思いました」なんて、よくある話じゃないか。それだけなのか?
「多様性を尊重しよう」みたいなこと? と私はKに尋ねた。これを聞きたかったのは、私はなんとなく「みんな違ってみんないい」などと表現される多様性の礼賛に、居心地の悪さを感じていたからだ。うまく言えないが、なんとなく……

Kは、「みんな違ってみんないい」は、「いい」と言っているところが自分とは違うと言った。「違い」は、尊重するものじゃなくて、「ある」んだ。「ある」を見つけて楽しんでいる。それが科学なのだとKは言った。

(待てよ、科学だけではないかもしれない。私の知り合いで人文社会系を専門にしている人の中にも「ある」でワァ〜ッと盛り上がる人々がいる気がする。科学をやっている人の中にもwkkのような「非科学的なもの」撲滅主義者がいると思う。まぁ、「Kにとって、それが科学なのだ」程度なら言えると思うけど。それはさておき、)

私も、「ある」を見つけて楽しむタイプなのだと思う。「こういうの『ある』よ」だけで、ワァ〜!と盛り上がれてしまう。いい/悪いの話は、その後だ。だから、即座に「いい」と言ってしまうと……というか、むしろ、「ある」ということが「いい」と抱き合わせで提示される「みんな違ってみんないい」に対して、居心地の悪さを感じるのかもしれない。

「認める」や「肯定する」といった言葉を使うときにも、そこに「ある」と「いい」のどちらが含まれているのか、両方とも含まれているのか、よくわからないことがある。

趣味が悪いか失礼か

そういえばピジェ、以前に看板が貼り紙の写真を撮ってたら友だちか家族かに「趣味が悪い」って言われたって話、なかった?と、Kが言った。あった気がする。

写真というのは、たとえば、こういうやつだ。

写真を撮るピジェに「趣味が悪い」と言った人が言いたかったのは、「失礼だ」ということだったと思う。他人の間違いを晒し上げて馬鹿にするのは失礼だ。あるいは自分は正しい言葉の使い手であり、他な人はそうではないと思っていい気分になるというのは、趣味が悪い。まあ、それは失礼だし趣味が悪いよなと思う。
そして、私の振る舞いは、他人からはそのように見えるかもしれない(というのが、「ある」)。私がいくらそういうつもりでやっていないとしても。

私が上記のツイートのような「間違い」を見つけて他人に見せるのは、「こういうの『ある』よ」の話だと思っている。

私が興味あるのは、こういうことだ。 たとえば、「タバレは流れません」と書いた人は、おそらく「タバコは流れません」と書きたかったのだろうなと想像する。じゃあなぜ思ったとおりに書けなかったのだろう? 手が滑った? じゃあ、手の滑りはどうやって起こるのか? 五十音のなかで「レ」になったのはなぜか? そういうメカニズムが気になる。これは、「いいか悪いか」は横に置いておいて、まずは「こういうことが『ある』」とした上での疑問だと思う。

また、人はよく、「言葉には正しい使い方があり、文字には正しい形があり、言葉は(文法などの)ルールに則って使わなければならない」と言う。その観点で見ると、上記のツイートの文や文字は「間違い」だということになる。しかし、この貼り紙を書いた人や、店で働く人、店の客は「間違い」に気づかなかったか、気づいても放置したのだろう。「間違い」に気づいて指摘する人がいたり、「間違い」のせいでトラブルになったりしたことがあれば、既に貼り紙は修正されているはずだからだ。

誰も気づかない「間違い」を「間違いだ」と言えるのかどうか、私はよくわからない。ひょっとしたら、「言葉には正しい使い方がある」などというのはなんかの幻想で、みんなはそういった幻想を多かれ少なかれ持っているかもしれないが、もっとゆる〜く現実生活をやっているのでは? という気もしてくる。しかしどこかには、間違いを馬鹿にしようとする人がいるのも事実として「ある」んだよね。その辺りのルール意識と、現実生活で人が何をしているか、言い換えれば、言語規範と言語運用だろうか、そういうところで、実際に何が起きているのかに、私は興味がある。

そういうわけで、私は他人を馬鹿にするつもりで写真を撮っているのではないのだが、こういう話はちょっと複雑で、時間もかかる。 私の振る舞いをパッと見ただけの他人からは、馬鹿にしているように見えるかもしれなくて、そう見えたら悪いと思う。

「ある」を見つけて楽しむことには、こういう側面も「ある」のだろう。

野次馬、あるいはコレクター

まあ要するに、野次馬みたいなもんなのかもねと私は言った。動物園に行ってシマウマを見て、「こういう動物もいるんだ」と言って楽しむのと、人間を見て「そういう考えもあるんだ」「そういう振る舞いをする人もいるんだ」と言うのは、そう変わらなくて、だとすると我々は野次馬のような態度なのかもしれない。あるいは、博物館に行って、土器や化石のコレクションを見るのにも似ているかもしれない。

ところで、動物園や博物館は、動物や物を集めてみんなに見せるだけではなく、動物や物を保護したり保存したりすることも目的としている。

「山の神様」の話に少し戻る。

帰りのバスの中で、Kがぽつりと「山の神様なんていないよと否定していたら、山の神様を信じる人はいなくなっちゃうんだよね」と言った。

現在のKに追加で説明を求めたところ、「山の神様を信じる人がいなくなるとしたら、悲しい」と言った。ようやく真意がわかった。そういう信仰が「ある」ということを、(たとえば本で読めばわかるとしても、それだけではなく、)目の前のおばあちゃんのなかに見た。歴史の残り香がそこにあるのがうれしいとKは言った。

これは、ある意味、色々なものを保存しておきたいという、コレクター精神に似たもののようにも思える。

そういうのは、他のところにもある。たとえば東京のどまんなかに、デカくて広い家があって、代々続く一族の末裔がそこに住んでいる。天皇制。歴史の残り香はそこにもあるから嬉しいと、Kは言った。

なるほど。同意はしないが理解はできる。

私はこの点では、Kとは違う嬉しさを感じるかもと思った。むしろ、私はレアなイベントが見れたらワクワクすると思うのだ。もし天皇制が廃止されることになったら、そんなレアな消滅イベントは、おそらく歴史上一度きりしかない。それを見ることができたら、野次馬冥利に尽きるのではないだろうか。そのイベントが起きるとき、人々の宗教観や平等意識、損得などが複雑に絡まり合い…… といったことも起きているはずで、そういうのも面白いと思う。

こうして、歴史の残り香があって嬉しいというのが「ある」し、レアなイベントに立ち会えたら嬉しいというのも「ある」ね〜 などと言いながら、どちらかが正しいと言うのではなく、「ある」を見つけて楽しんでいる。

「ある」を見つけて楽しんでいると言っている我々も、おそらく「Kは天皇制に賛成するんですね、ピジェは反対するんですね」と読者には思われるかもしれないし、それは、いい/悪いの話にも見えるかもしれないとも思う。それに対して、「いや、嬉しいかどうかと、自分の主義主張は別ですよ」と言えるかもしれない。人生、ときには嬉しくない選択をすることもあるはずだから。

「ある」の梯子

自分や他の人の考えを「あれがある」「これがある」「みんな違うな〜」と眺めてみるのは、梯子を一つ登って俯瞰するようなものだと思う。

さらに梯子を登っていくと、「みんな違ってみんないい」と言う人が見えてきたり、「消滅イベントが見れると楽しい」などと言っている人が見えたりする。さらに、「『ある』を楽しんでいる人はこのように見える」と言ってみたりもする。たぶん、この梯子はどこまでも続いていて、どれだけ高いところへ辿り着けるかに挑戦している人もいるだろう。梯子を登るにはたぶんコツがあり、楽しみ方も色々だ。

我々は高いところへ辿り着きたいわけではない。好き勝手に梯子を上り下りして、「あれがあったよ」「こんなのが見えたよ」と報告し合って楽しんでいるのだと思う。そういう楽しみかたも「ある」。こういう楽しみかたをしている人たちは私とKの他にもいると思うし、楽しいとは思わない人もいるだろう。
そして、こういう楽しみかたが「ある」ことに気づいたのも、(読者を含む)我々の人生の歴史が、なんか絡んでいるはずだ。
そうやって、「ある」を見つけて楽しんでいる。というのが、「ある」。