アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

擬態とジェンダー

他の人が自然に振る舞っていることについて、自分はよく観察して意識的に振る舞わないと同じことができない。どうしてもなんとなく浮いてしまう。その理由を小さい頃から「裸眼視力0.02の強度近視だからか?」「親が地元の人じゃないからだろうか?」「家族の宗教のせいか?」といろいろと考えてきた。

 

ジェンダー(社会的性別)も、私が自然に振る舞えないもののひとつで、わからなみが深い。これは、私の性自認(「身体の性別」とは異なり「心の性別」と呼ばれるもの)がなにであるかとも関連していると思う。

 

先日、「自閉スペクトラム症の女の子が出会う世界」を読んで、ツイッタのフォロワ諸氏とリプライなどをして、性自認(性同一性、ジェンダーアイデンティティ)の理解度が上がった。

この本では、特にジェンダーセクシュアリティの話が面白かった。さらに「自閉傾向がある」というのは、自分の性質を他の分類より圧倒的によく記述できる分類だなと思い、爽快な気分になった。(細かい話は省略するが、通っている精神科は手続き上の必要性がない限り発達障害の診断はつけない方針だが、ADHDASDの傾向はあると言われている。)

 

小さい頃から人間に擬態してきた(周りの人間と同じように振る舞おうとしてきた)からか、ジェンダーを『どういうふうに擬態するか』と捉えていたように思う。それで、高校〜大学時代辺りで、『身体の性別(あるいは生まれた時に割り当てられた性別)とは同じでなくても構わないとしてジェンダーを選ぶなら、それに伴って得するのも損するのも承諾したってことになるのか? 承諾したくないぞ?』という疑問を持った。

どうもそうではないと分かったとき、混乱した。

最初に思っていた性自認のイメージは「A定食はご飯・味噌汁・焼き魚に小鉢が付いていて、B定食にはご飯・味噌汁・焼き魚にデザートがついています」みたいなものだった。A定食を選んだのにデザート食べたいって言ったら「ダメです(追加料金払ってください)」となるのが世の理だ。

それで、じゃあ定食じゃなくて何なのかっていうと、そもそも性自認は、損得を考えて選ぶようなものではない。意思とは無関係に、なんか感じる(そういう認識がある)もので、根拠も不要っぽい。そして、損したり得したりしたら、文句を言ってよい。

どうも「(身体がどうであれ)自分の性別を認識する、そういう感覚みんなあるよね」という雰囲気になっているように思う。しかし、「そういう感覚みんなあるよね」なんて言われたって、ないものはないのだ、「ない」と言ってよいのだということがわかった。

 

ASD者は定型発達者よりもジェンダーに困難を覚えることが多いようだ。「自閉傾向がある」は、自分の性質をよく記述できていて、すごい発見だった。

(とはいえ、いろいろと面倒なので今後もある程度は擬態を続けることになるだろう)

 

自分のジェンダーセクシュアリティについて(定型発達かどうかは問わず)話してくれる人、募集してます。

 

# いつも勢いでダラダラ書く時はツイッタに連続投稿していたんだけど、そういうのはブログに書くことにしてもいいのでは?と思ったので、書いてみた。