アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

取説のない機械のつまみをひねる

ADHDの服薬について考えないといけないとこあると思うんだよな。「病気ですからお薬飲んで治しましょうね」でも「スマートドラッグで賢くなるぞ」でもない付き合いかた。

ニューロダイバーシティでは、「多数派のニューロタイプ(脳の神経のしくみ)が正常な基準だとしてやっていくのはマズい」と主張する。だから少数派のニューロタイプを治すべき病気とは言わない。

と思うと、たぶん、素朴な「賢さ」というのだって、特定のニューロタイプの人たちがふんわり持ってる価値観だ。その「賢さ」に追いつくのが最適とは限らない。異なるニューロタイプの人にはその人たちなりの価値観ややり方、「賢さ」があるかもしれない気がしてくる。

それでも、ぼくにとって服薬が必要だと思う。これは人により違うし、色々よくわかってない子どもに飲ませるのも危ないかもしれないけど。

 

じゃあ、ぼくは何のために薬を飲むのか。

取扱説明書のない機械を渡され、何かのタスクをやることになったとする。(知らない民族の楽器を演奏するとか、ホテルの枕元にたくさんのスイッチやつまみがあってラジオを鳴らしたいとか)。
取扱説明書がなく、使い方を教えてくれる人もいないとしたら、まず機械のあちこちを押したり引いたりしてみるしかない。だんだん、「このボタンを押したら足元が明るくなるのだな…」とか、機械の性質がわかって、タスクがやれるようになる。

ぼくは、ボタンがあったら押したくなるし、つまみがあったら回さずにいられない性格だ(特性かもしれない)。
ここで機械にたとえているのは、脳みそだ。ADHD向けの薬、ストラテラやインチュニブを飲むことは、つまみを回すようなことだと思う。つまみを回すと神経伝達物質の流れをちょっといじることができるので、自分の脳みその特性がちょっとわかりそうな気がしている。

 

ちょっと脱線するけれど、通院を始める前に「自分の脳みそを使いこなしたい」という素朴な感覚があった。「身体は乗り物で『自分』はまだ別にいる」とするのが心身二元論だと思うんだけど、ぼくの素朴な感覚では乗り物の部分に脳みそも含まれているということだろうか。自明なのかな? 哲学が面白そう。

 

話を戻すと、先日「注意は欠如していない。どこかを向いているはずだ」というツイートを書いた。

ニューロダイバーシティをやっていく。
ぼくの脳みそが「注意が欠如してる」ということになるのは、神経学的多数派(定型発達)の取説に書かれた基準に照らした場合だ。
神経学的多数派の取説は、どうもあまりあてにならないみたいだとわかった。
取説はぽいと捨てて、じゃあ、つまみを回してあちこち押したり引いたりしてみて、掴んでいくしかないんだなあ〜と、悟ったと同時にハラが決まった。

医者に「ADHDの薬は一生飲むというものではない」と言われたのも、こういうことなのかもしれない。
考えてみれば心理師さんにも「自分の特性を理解して対処していきましょう」と言われていたんだけど。
でもどうしてこのタイミングで(ニューロダイバーシティがきっかけになって)ハラが決まったのか、不思議だな。
これまでは「苦手を理解しよう」だと思っていたら全然気が乗らなかったということかもしれない。「ADHDの人はこんなことが苦手です」を見ると、苦手だ苦手だって苦手ばっかり列挙されてて気が滅入るよな。

ぼくはADHDの薬を「不具合修正パッチ」と呼んできたが、ぼくの脳みそに不具合があるという表現は不適切で、まあ、異文化コミュニケーションに不具合があるということになるのかなあ。

 

 

ところで、ADHD向けの薬は高い。自立支援医療を利用しているので1割負担で済んでいるが、
国さんか府さん(保険料や税金を払ってるみなさん)はぼくのために月何万か支出してくれてるということで、すごいと思う。
しかし、まあ考えてみればそれも神経学的多数派(定型発達)以外の取説が完備されていないせいなので、迷惑料としてもらっておくでいいのか。

ぼくは幸運にも精神科に通い始めることができたし、薬代が払える経済的余裕もあるし、体もまあまあ丈夫だから(ストラテラは胃や血圧、インチュニブは心臓や血圧が大丈夫じゃないと使えない)つまみを回してみることができているが、誰でもこのつまみを回してみることができるとは限らないんだよな。

今後、つまみを回して得た知見をブログに書くとかで発信していったら、ほかの「取説のない脳みそ」や「取説とちょっとちがう脳みそ」を持ってる人たちや、その周りの人たちの参考になるかな?だといいなあ〜と思う。

ということで予告だけして今回はおしまい。