6月に書いて公開していなかったが、9月になってようやく公開しようという気が出てきたので、スッとねじこむ。
ちょっとまえに三木那由他さんがツイートしてはったこの日本語訳を最近読んだ。性別違和(ジェンダー・ディスフォリア)を哲学の観点から説明する話。一般に「心の性」とか「ジェンダー・アイデンティティ」とか呼ばれるよくわかんない(とぼくが思っている)やつを、「動機づけジェンダー」ということばを使って、社会のひととのかかわりを通して説明する。それがぼくにとって、わかりに一歩近づくものになった。
知らないことばがたくさん出てくるが、例がわかりやすいので、ゆっくり読んでいくとなんとなく分かる気がする。ジェンダー・ディスフォリアについて、いくつかのわかり的な衝撃を受けたので書いていこうと思う。これまで不可解だったことが少し分解できたような気がしているが、ぼくのブログだけでわかりやすく伝えられる気がしていないので、ぜひ論文を読んでほしい。
- Nayuta Miki, Philosophia OSAKA. 17 P.19-P.28, "Transgender Experience and Gender as an Aristotelian Essence" (2022) https://doi.org/10.18910/85575
- 日本語訳 三木 那由他 (Nayuta Miki) - Transgender Experience and Gender as an Aristotelian Essence - 論文 - researchmap
- https://twitter.com/nayuta_miki/status/1506571841053540352
gender dysphoria の "dysphoria" が「違和」って言われるの、違くない?って気がするんだよな。違和感って困らないレベルのやつが日常にゴロゴロ転がってるじゃん。だからこの記事でもディスフォリアって書くね。
この論文では、ジェンダーを、他人がぼくを評価するときに参照される値(評価ジェンダー)と、ぼくが動機を得るときに参照する値(動機づけジェンダー)に分けて考える。ジェンダー・ディスフォリアの苦しみは、この二つが一致しないときの苦しみである。
書こうかなと思っていること
身体ではないところのジェンダー・ディスフォリア
ジェンダー・ディスフォリア、よく言われるのは身体に関するやつだ。たとえば、自分の胸は平らであるべきなのに、そうではないのが耐えられない苦痛だったりするようなやつ。(身体には社会的な側面があるとぼくは考えているが)
論文では、社会的なディスフォリアが説明されている。社会のひととのかかわりのなかで受ける苦しみだ。これまで自分が「これ何なんだろうな」と思っていたやつが、ジェンダー・ディスフォリアっぽいとわかった。
部族の掟、茶番
今日の話とは(あまり)関係がないけど、ジェンダーはほとんど"""社会性がある"""ことをお互いに誇示し合う茶番であり、社会性があってもなくても生活していきましょうという気持ちになる。
— 𐀠ピジェてゃ𐀋 (@xiPJ) June 4, 2022
Twitter @xiPJ 今日の話とは(あまり)関係がないけど、ジェンダーはほとんど"""社会性がある"""ことをお互いに誇示し合う茶番であり、社会性があってもなくても生活していきましょうという気持ちになる。
ジェンダーはほとんど"""社会性がある"""ことをお互いに誇示し合う茶番なのだ、という理解は、今回紹介している論文を読んで確信が強くなったものだ。
論文を読んだときのいちばんの衝撃は、うっわ、部族の掟じゃん、人間ってこんなことやってたんだ!?というようなものだった。ぼくが思っていたよりずっと、ひとは行動するときにジェンダーの影響を受けているっぽいことに驚いた。だとすると、なるほど、だからそんなにみんな日常的に自分や他人のジェンダーに言及するわけだね、と納得できる気がする。
「部族の掟」というのは、発達障害当事者が、定型発達のひとびとが従う暗黙のルールについて言っていたことばだ。発達障害をもつひとたちは、ジェンダーの困難さをもつ割合が高いらしい。これは暗黙のルールを読み取ってそれに従うのが苦手なことが多いことと関連しているんだろうなと思う。
社会的規範に鈍感
ジェンダーに関する社会規範のほとんどは暗黙のルールだが、ぼくは暗黙のルールがわからないひとがいること込みでホモサピを理解したいし、その一環としてジェンダーを理解したいわけですね。論文では、社会規範がわかることは当然ぽく書かれていてモニャッとしたので、その話をする。
ジェンダー・ディスフォリアとジェンダー・ユーフォリア、どちらを経験するにしても、そのひとが社会的規範がわかっていることが前提にある。ひとはひとを、社会的規範がわかっていることを前提に、ジェンダーによる動機づけが発生するとみなして評価するわけだ。
ジェンダー・ディスフォリアは、じぶんが動機づけされたのとは異なるジェンダーで評価されるときに感じる不当さだと理解した。社会的規範がわからないとき、ジェンダーによる動機づけが発生しないだろうが、他人から「じぶんを動機づけしていないジェンダーで評価される」というのは発生しうるので、これもジェンダー・ディスフォリア(か、それに似たやつ)だと言えるのではないか?
社会的規範がわからないときに、ジェンダーによる動機づけが発生しないというのはどういうことなのか、ぼくが小学生のときにモヤモヤした話をしよう。
小学校でおたよりと封筒を配られ、絵の具セットを買うことになった。封筒には絵の具セットの写真がついていて、紫とオレンジの2色があり、紫色が好きだったぼくは迷わず紫を選んだ。
図工の時間、絵の具セットを持って、廊下に男女2列で並んで、先生に率いられて移動する機会があった。廊下に並んでいると、こちらの列(女子の列)の子たちはぼく以外は全員オレンジの絵の具セットを持っていて、あちらの列(男子の列)の子たちは全員紫の絵の具セットを持っていることに気づいた。
こちらの列の子たちの中で、紫を選んだのはぼくだけだったのだ!どうしてこんなことに!なぜみんなが、示し合わせたように絵の具セットの色の選びかたが同じなのか、マジでわからなかった。わからないなりにも、「やっちまった」と思った。目立ちたくなかったからだ。目立ちたくない話は、以前 擬態とジェンダー - アイソモカ で書いたことと関連している。それから6年間紫の絵の具セットを使い続けたので、強烈に記憶に残っている。
いま、「好きな色を選んだらいいじゃないか」という話をしたいのではない。みんな示し合わせたように絵の具セットの色の選びかたが同じだったのだが、その背後にあるものに気づくか気づかないかという話をしている。(一応言っておくと、みんなそれぞれ好きな色を選んだらたまたまはっきり分かれた、が発生するとは思えないよな、両隣のクラスもあわせてN=100ぐらいでしょ)
(実はぼくの他にも、隣の隣のクラスにはこっちの列に並ぶ紫の絵の具セットを持った子が1人いるように見えたが、詳しいことはわからない)
記憶をたよりに絵の具セットの絵を描いた。上側が紫とオレンジで、ポケットの色は違ったよなあ、たしか緑とピンクだっけ?と塗ったら、気づいてしまった。この絵の具セットの配色が「女の子向け」と「男の子向け」に見えるものであったことが、今のぼくには、わかる!!!!! 小学生の頃はわからなかったのだが、大きくなるにつれ、社会的規範を学習したということだ。
社会的規範がわからないとき、ジェンダーによる動機づけが発生しないというのは、絵の具セットの色を選ぶときに、ジェンダーにかんすることが1ミリも想起されないということだ。(これは、「当たり前すぎてわざわざ意識しない」ということとは全く違うんだけど、うーん、わからないひとには伝わりにくいかもしれないな。)まあ、いずれにせよ、小学生のぼくは「男だから紫を選んだ」のでもなく、「女なのに紫を選んだ」のでもない、ということが大事なのだろうと思う。しかし、その後、自分を動機づけしていないジェンダーで評価される可能性がある。端的に言えば「女なのに紫を選んだ」「実は男の子なんでしょ」と評価されることなどがありうる。これは必ずしも悪い評価ではなく、「勇気あるね」のような、よい評価の可能性もあるが、いいか悪いかはどちらでもよく、今重要なのは、ぼくの動機とは異なるということだ。雑に言うと「勇気もクソもねえ、ただ女とか男とか、わかんなかっただけだ」。動機が他者に正しく理解されるということが大事っぽいんだよな。
一方で、社会規範がわかる場合(論文に出てくるハナとハルのようなひとたち)。 絵の具セットの配色が「女の子向け」と「男の子向け」に見えるひとが、ジェンダーによる動機づけがありながら絵の具セットの色を選ぶとき、同じ紫を選ぶとしても、たとえば、じぶんは女の子なのでオレンジを選ぶことが期待されていることはわかりつつも、好きな色は紫なので紫の絵の具セットを選ぶとか、じぶんは男の子だから紫の絵の具セットがいいんだ、とかいうふうに絵の具セットを選ぶのだろう。
この2人の子がどちらも評価的ジェンダーが女性であるとする。「じぶんは女の子なのでオレンジを選ぶことが期待されているが、好きな色は紫だから、紫の絵の具セットがほしい」と考えて紫を選んだ子は、評価的ジェンダーと動機づけジェンダーが一致している。一方で、「じぶんは男の子だから紫の絵の具セットがいいんだ」と考えて紫を選んだ子は、評価的ジェンダーと動機づけジェンダーが一致していない。しかし、この子たちのどちらの経験も、上で書いたぼくの経験とは異なる。
ここで、なるほどね、と思ったことが2つある。ひとつは、暗黙のルールを読み取るのが苦手で社会的規範がわからない場合にも、ジェンダーに関連する苛立ちを覚えることがあるのだということ。もうひとつは、ノンバイナリーをふくむトランスジェンダーのひとたちが語る幼少期の経験について、ぼくが感覚レベルで理解できなかったことがあったのは、そのひとたちは社会的規範がわかっていて、ぼくはわかっていなかったことも一因としてあったのかもしれないということだ。
小学生のぼくの経験は、発達障害っぽいエピソードだといえそうだ。ひとは、「ひとは社会的規範がわかっているはずだ」という前提のうえで、評価ジェンダーを適用して評価するのだろう。これは定型発達ノーマティヴというのか。なんなのか。
ジェンダーによる動機づけが弱い
論文で説明されるトランスジェンダーの経験は、ノンバイナリーなトランスジェンダーまでカバーされていない。いつかカバーされてほしいな〜と思いながら、いくつか考えたことを書いていく。
上で、いまのぼくには、絵の具セットの配色が「女の子向け」と「男の子向け」に見えると書いた。いま絵の具セットを選ぶとしたら、どうするのか。「女の子向け」と「男の子向け」という区別がわかるとはいえ、それはぼく自身とは隔たれたところの話であって、じぶんの行動を決めるときに動機になるレベルまでは降りてこないように思う。自分ごととして捉えられないのだ。紫を選んだとして、今は社会的規範がわかるといういみでは小学生のときとは違うが、やはり同じように自分を動機づけしていないジェンダーで評価され、不当に感じるということは発生しうる。
ジェンダーによる動機づけが発生するためには、まず社会的規範がわかることが必要だが、つぎに、社会的規範を自分に適用する動機づけ機構を持っている必要がある。このふたつは論文で特に疑われていない前提だと思うんだけど、えーと、このどちらかあるいは両方が苦手だと、社会的個体としては、どうなるんだろう、よくわかんなくなった。まあ、いずれにせよ、毎日元気に生きていて、けれどじぶんの動機と周囲からの評価の不整合は感じるよね、ってことはまちがいないが、雑。
思い出すと、ぼくが周りに「自分は自分のことを男だとも女だとも思ってない」「性別はノンバイナリーです」って言い始めたのは、そう言わないと嘘ついてる気がしたからだ。
この嘘つき感は、「ジェンダーに関する社会的規範を自分に適用する機構が、ぼくのなかでは周囲に期待されてるようには動いてないと感じる」みたいに説明できるのかもしれない。(「ジェンダーに関する社会的規範を自分に適用して動機づけられなさい」というの自体も規範なんかね?)
ここで、一応、ノンバイナリーというのはあるいみ「その他」みたいなものなので、ノンバイナリーのひとだからといって同じ経験を共有しているとは限らないことはおことわりしておく。それから、この「ジェンダーに関する社会的規範を自分に適用する動機づけ機構がうまく動いてないっぽい」というのは、"わざと"そうしてるというわけではないと思っているが、ひとがどのようにこの機構を備えるようになるのかよくわからないので、今後の課題ですな。
大人になってからの話を2つしておしまいにしよう。
前職に入社したばかりの時。CADスキルを買われて、化学系ベンチャーでCAEを担当していた。新しく入った居室は散らかっていて、メモやドキュメントやカタログやら、いろんな書類がごちゃごちゃしていて、資料を探すのがひと苦労だった。そこで、ぼくは同室のひとたちに聞いて事務のひとたちにファイルや箱をもらいにいき、書類を整理することにした。事務のひとは「部署に女性がいると助かるわね、男性達は整理整頓しないから……」というようなことを言い(そのひとは女性っぽい見た目で、そのひとからは女性性のプライドを感じた)、ぼくはむちゃくちゃ困惑した。困惑しながらも「新卒で入った職場で、書類整理は新人の仕事だと教育されたので、やってます」と答えると、こんどは事務のひとが困惑したようだった。(この話は、 ぼくと女性とディスフォリア - アイソモカ にも書いた)
それより数年前、新卒で入った職場の人と雑談していたとき、学生時代の専門をたずねられ、物理だと答えると「女性で物理ってすごいですね」と言われた(そのひとは男性っぽい見た目で、役職も上のひとだった)。何がすごいのかよくわからなくて、「たまたま生まれたとき女だっただけです」とモゴモゴ言ったら、困惑された。
この2つのイベントで、発言者がどんな意図で言ってたのか理解できなかったから、あとでまわりのひとに「これってどういう意味で言ってたんだろう?」って聞いたら、どうやら褒められたんだろうな?とわかった。
そうわかっても正当な評価だとは思えなくて、ぶっちゃけると感覚的には不快だったが、だからといってセクシャルハラスメントってわけでもなさそうだし?何なんだろうな???ってずっと思ってた。
この二つのイベントでは、評価ジェンダーが女性だ。二人のひとたちはぼくを「女性として動機づけられて行動した」とみなして評価した。しかし、ぼくの側にはジェンダーによる動機づけはなかったから(動機づけジェンダーは「無」であると言い換えられるのか?)、「そんなつもりでやったんじゃないのに!勝手に深読みされても困る!ぼくの意思を無視するな!」と感じる。じぶんが動機づけされていないジェンダーで評価され、苦痛だったといういみで、ジェンダー・ディスフォリアだと言えるのかもしれない。
評価にも鈍感だったらよかったのに
じぶんが動機づけされていないジェンダーで評価されたとき、これって評価に対して鈍感であれば悩まなくて済んでたかもしれない話でもあるんだよな。気にしなくて済むなら強い。ぼくはどうしても人間をわかろうとしてしまうから、しょうがないんだけど。
を読んでいて、ジェンダー・ディスフォリアのわかりが深まった気がしてたんだけど、待てよ、ひとはひとを社会的規範がわかっているとみなして評価するわけだよね、それって定型発達ノーマティヴっぽくない?みたいなことを考え始め、頭が爆発して寝るます。 https://t.co/OCluQZpwG6
— ピジェ(ピージェイ) (@xiPJ) June 2, 2022