アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

スマートでミステリアスなカーナビと、いい感じの状態【インチュニブ服薬レポート】

ADHDの薬が他の多くの薬と違うのは、多くの薬は飲むと「元の健康な状態に戻る」方向に変化する(頭が痛くない→頭が痛い→薬を飲む→頭が痛くない)のに対して、ADHDの薬は「元の健康な」が無いということだな。新たな状態へ「移行する」っぽい。

服薬でADHD的問題に対処するとき、目標の設定、すなわち、「どのような状態へ移行する(はず/べきな)のか」は、不明確だ。個人の脳やその人が置かれた状況によって、さまざまに異なる。だから、薬と専門家と周囲の人々の力を借りて、自力で「いい感じの状態」を模索するしかないんだと思う。

以前の記事で、ストラテラ(アトモキセチン )とインチュニブ(グアンファシン)の服薬レビューを書いた。そのとき、あまり「目標の設定」について悩むことがなく、「薬の効果」に焦点を当てて記述できた。それは、ストラテラが私には「目標設定を揺るがす」ほどの効果がなかったからだと言えるだろう。また、インチュニブを飲み始めて間もなく、効果をまだあまり実感していなかったというのもある。

以前の記事を書いた後、かなりの進展があり、かなりの問題が解決された。 そして、インチュニブには、目標設定を助ける効果まであるとわかった。まあよく言えば「目標設定を助ける」なんだけど、悪く言えば「目標設定を揺るがす」ことになる。これは、「インチュニブは前頭葉の働きを改善する」と言われていることと、前頭葉が目標設定を行う部位であることから、まあそういうこともあるかもね〜と理解できる。そのため、もはや「薬の効果」と「目標の設定」は、複雑に絡み合い、分けることができなくなった。だから、問題は解決されたんだけど、どのように問題が解決されたかを自分で理解し、他の人に説明するのは難しい。 この記事は、そのような混乱と模索の記録である。

概要

  • ADHDの「治療」は、生活や人生がうまくいく「自分にとっていい感じの状態」を見つけることだ
  • インチュニブの服薬により、感情-思考-行動が連携し、集中やタスク実行がスムーズに進むようになって、びっくり
  • 私にとって「いい感じの状態」は、緻密な計画よりも、むしろ直感的な即座の判断力に従って、柔軟に行動することによって実現される
  • 問題解決というプロセスにおいて、本来の目的に立ち返ると、予想外の解決の糸口が見えてくることってあるよね

倫理的な話

まず、服薬を検討する際には、医師と十分に話し合ってほしい。薬の効果は個人差が大きく、特に脳は複雑なので、一人ひとりに適した薬の種類や量を予測するのは難しい。インチュニブは私にとっては有効だったが、副作用(眠気や低血圧、心臓に関連するもの、精神に関連するもの)の懸念もあるため、慎重に検討する必要がある。また、一口に「ADHD」と言っても、治療の必要性、服薬の必要性、また、目指すべき方向は個人によって異なる。治療は薬物療法だけに限らず、この記事で述べていく混乱の日々において、心理療法(精神科のカウンセリング)が大きな支えになったことも覚えておいてほしい。

私は精神科に通院するにあたり、自立支援医療(精神通院)の助成を受けている。インチュニブという比較的高価な薬を服用するうえで、このような経済的な助けに感謝する一方で、すべての人に適切な医療が届くことを心から願っている。ADHDや精神疾患には、残念ながらいまだに社会的な偏見が存在する。しかし、私たちがそれぞれの役割を社会で全うし、共に生きていく上での責任を果たすためには、脳や精神の問題を身体の健康問題と同様に捉え、適切な治療と理解が得られる必要がある。私たちの脳や精神をコンピュータのハードウェアとソフトウェアに喩えるなら、不具合を修正して全体のパフォーマンスを向上させ、必要な機能を維持するのは理にかなっている。精神医療は、私たちのハードウェアとソフトウェアに技術的な支援を提供するものである。

また、薬はすべてをよくするわけではなく、あくまでも補助的な一つの手段であるということも忘れてはならない。薬の効果はきっかけ、あるいはサポートと考えるべきで、「いい感じの状態」に到達したのは、私自身の努力と、日常的な事柄から哲学的な話題までさまざまな議論や相談に乗ってくれた、周囲の人々のおかげだと考えている。

問題と対処法

明らかな問題があるから薬を飲むことにするわけだが、問題の捉え方と対処法には「問題がない状態」をどのようであると考えるかが、大きく関わってくる。

そのときに「問題がない状態」として、「多くの(定型発達の)人々はこうなのだろう…」みたいな状態を想定してたんだよ、最初は。だけど、インチュニブの効果が出てきて「自分的にいい感じの状態」を見つけ出す必要があったとわかり、格段によくなった。

問題:やりたいこと・やらなければならないことがたくさんある状況で、あれもこれもと焦って目の前のことに集中できない

どんな問題があったかというと、「やりたいこと・やらなければならないことがたくさんある状況で、あれもこれもと焦って目の前のことに集中できない」ということだ。この問題は、3年半前にようやく認識でき、精神科に通うきっかけとなった(怠け者の根性なしではなかったっぽい - アイソモカ)。

これはADHDの症状であり、行動レベルに捉えれば、タスク管理の問題や「布団に入れない/布団から出れない」というような日常の問題といえる。これが長期的に続くと、日々の達成感のなさや、「自分は何ひとつ達成できない」という無力感につながり、生きていくのがしんどくなる。

脳というシステムの中で、どのような問題があったのかはよくわからない。一般的にADHDの症状は、不注意・多動・衝動と挙げられるが、そのどれかひとつに分類することが解決策に結びつくかというと、微妙な気がする。

最初の対処法:計画性を身につけようとする

人がよくアドバイスしたくなるのは、「やりたいこと・やらなければならないこと」を全部紙に書き出して整理して優先度をつけ、一つずつ手を動かしていけばいい、というようなものだ。この方法は多くの人に有用なものらしく、「緻密な計画を立て、その通りに実行するのがよい」という目標設定に基づいている。計画的に動くことは社会で求められている能力だから、この方法をアドバイスしたくなるのは同然だし、最初に試してみるのは悪くない。私が最初に「問題がない状態」として、「多くの(定型発達の)人々はこうなのだろう…」みたいな状態を想定していたというのは、これのことだ。

しかし、それがうまくいかないことを経験から学んだ。まず、ADHDを持つ人にとって、紙とペンを探しだすのが一苦労なのは、想像に難くない。さらに私の場合は、書いたところで、何十もの項目が挙げられたリストを見て圧倒され、それらすべてを実現することは不可能だという事実を目にして打ちひしがれる。優先度を考えるのには膨大な時間がかかるが、どれかひとつを選択したところで、他の「いまやってないこと」や「永遠にできないこと」は頭を離れないのだった。

とはいえ、最初に飲んだADHD治療薬であるストラテラは、この方向に沿う効果がいくらかはあり、じっくり座って冷静に分析する助けになったと思う。しかし、問題が完全に解決されたわけではなかったので、医者とカウンセラーと相談し、薬を変えることにした。(ストラテラによって解決できない問題については、以前の記事「 ストラテラの静寂、インチュニブの動力【前編】 - アイソモカ」に書いたが、一言で言うなら、優柔不断になりすぎる。)

うまくいった対処法:自動的な選択と、意識的な受け入れ

「やりたいこと・やらなければならないことがたくさんある状況で、あれもこれもと焦って目の前のことに集中できない」という問題には、インチュニブによってもたらされた脳内の情報処理プロセスの変化に慣れたことで、違ったアプローチが見えてきた。それは、それは、じっくり座って冷静に決定し行動するのではなく、その場その場の自分の心の声に従って直感的に行動する方法だ。

この方法を説明するのは難しい。

まず、私の頭の中の、ほとんど意識できない何かによって、タスクが自動的に選択される。今日は朝起きてすぐ「薬の効果についてのブログ記事を書こう」と思いつき、それを自然と行動に移していた。以前からやろうと思っていたことだし、面白いと思うから自分のために記録しておきたいし、他の人の参考になるかもしれない……といった理由はある。しかし、そのような理由や他のタスクとの優先度を意識的に冷静に考えて「これをやろう」と選択したわけではない。

日々の生活をドライブに喩えるなら、このようなタスクの自動選択は、スマートでミステリアスなカーナビが働いているようなものだ。自分という車を考え、判断を下す〈意識的な私〉が車の運転手だと考えてみよう。インチュニブを飲み始めて効果が感じられると、この車にはスマートでミステリアスなカーナビが搭載された。〈意識的な私〉が車を運転していると、カーナビが突然『アイスクリームを食べに行きましょう』と言い出す。その提案とともに車内にはアイスクリームの映像と歌が流れ始め、〈意識的な私〉はうきうきして、アイスクリームが食べたい気分になってくる。それから目の前には、アイスクリーム屋までのルートがぼんやりとフロントガラスに投影される(近未来的な表示システムを想像してほしい)。あとは〈意識的な私〉がそれに従ってアクセルやハンドルを操作するだけで、アイスクリームを食べに行くことができる。

カーナビに従うことで行動がスムーズになるが、その選択の理由や動作原理は、〈意識的な私〉にはよくわからない。〈意識的な私〉がアイスクリーム屋を目的地として設定したわけではないのだ。スマートでミステリアスなAIに基づいた、自動的な選択のように感じられる。〈意識的な私〉は思考し、「アイスクリームは好きな食べ物だし、ちょうど近くにアイスクリーム屋があったから……」と、その選択の理由を想像することはできる。しかしそれは〈意識的な私〉の想像に過ぎず、現代のAIシステムの多くがそうであるのと同様に、自動選択のはっきりとした理由や根拠、カーナビ内部のアルゴリズムは不明確なのである。だから、このカーナビが機能し始めて間もないとき、なんだか気味が悪いと感じ、信頼していいものかと戸惑った。

この状況は、インチュニブ服薬前、「やらなきゃいけないと理解している(思考)けど、やる気が出ない(感情)、腰が重くて立ち上がれない(行動)」という状況がよくあったのとは対照的だ。その当時、カーナビなんていう便利なものはなかった。運転手である〈意識的な私〉は一旦車を停めて、「手動で」計画を立てる必要がある。地図を広げて、複数の行き先の候補を検討して一つを選択し、ルートを記憶する。そして運転しながらルートを思い出して、自力でアイスクリーム屋へ到達しなければならない。それは大変な作業で、途中で頻繁に道に迷い、時には諦めてしまうのは当然だ。

インチュニブが効くと、感情-思考-行動の歯車が噛みあうように感じられる。このスマートでミステリアスなカーナビの特徴は、感情と思考と行動のすべてに働きかけ、それらが連動していると感じられることだ。

  • 感情:その目的地に行きたい気分を高める
  • 思考:自動で選択した目的地を〈意識的な私〉に提案する
  • 行動:目的地までのルートを示す

この素晴らしい機能は、元々脳に備わっていたのだろうか? それがインチュニブの服薬によって「機能する」ようになったのだろうか? おそらくそうなのだろう。しかし人間の脳にこんな便利な機能があるとは、知らなかった。これは私にとって新たなテクノロジーの登場のように感じられ、私の内部では戸惑いと論争が巻き起こった。

現代のAIシステムに対して多くの人が「すべてをAI任せにしてはいけない」と警鐘を鳴らすのと同様の思いを、私もこのスマートでミステリアスなカーナビに感じた。このカーナビは、確かに私の脳の中で動いているので、神のお告げや、宇宙人の交信ではないと思われる。しかしその原理は謎に包まれており、本当に信頼していいものだろうかと、疑いは残る。
さらに、現代のAIシステムに対して多くの人が「AIは道具であり、使用する責任は人間にある」と論じるのと同様のことが、〈意識的な私〉の内部でも主張されるようになった。カーナビは運転をサポートする道具であり、その提案に従った責任は、運転手である〈意識的な私〉にあるのだ。
インチュニブによって私の内部に巻き起こった論争については、別の記事で、薬の量を調整した経緯とともに、詳しく述べるつもりです。お楽しみに。

最後に、車とカーナビの喩えを離れ、現実に何が起きているのかを記述しておこうと思う。毎日の生活の中で、「やりたいこと・やらなければならないこと」は膨大にある。具体的には、「薬の効果についてのブログ記事を書く」や「スーツをクリーニングに持っていく」「晩ごはんを食べる」などのすぐ行動に移せそうなレベルのタスクから、「プログラミングのスキルを向上したい」のように、ちょっと漠然とした目標まで、さまざまだ。これらは私の意識から無意識へと送られ、無意識の中でうまく管理されているようだ。そして、ふとした拍子に「晩ごはんを食べに行こうかな、ついでに、スーツをクリーニングに持って行こう」と思いつく。そこには、行けそうな気分とやるぞという気持ちも連動し、体がスイスイと動いて、クリーニング屋に到着している。そして、タスクを実行している間、他の「いまやってないこと」はほとんど意識には上がらない。もし上がったとしても、「まあ、そのうちやるさ〜」と思えるし、すぐに意識から消えて、目の前のことに集中できる。

このような無意識によるタスク管理、あるいは、感情-思考-行動の同期は、できる人には当然のことのように思えるのだろうか? 先進的なカーナビは、多くの人の脳に備わっているのだろうか? そうだと仮定すると、これまで耳にし、それによって少なくないダメージを受けてきた言説の背景にあるものが推測できる。というのは、「やりたいと言いながらやっていないのは、本当にやりたいとは思っていないからだ」「タスクの重要性を理解すれば、忘れずにやるようになる」というような言説だ。無意識のタスク管理がうまく機能しているなら、やりたい気持ちと実際の行動は連動するのだろうし、タスクの重要性を意識すれば、それは無意識の中でも優先順位が高く管理され、意識の側へしっかりと通知されてくるのか。そして、一般的に人は、自分が当たり前にやっていることは、他人にも同じようにできると思いがちだ。自分の脳に高性能なカーナビが搭載されていることも知らず、他人の脳には異なるバージョンが搭載されていたり、カーナビのない車を運転している人がいることも知らないのか。実際には、他人は他人だ。その脳や精神、心理的なメカニズムが、自分と同じように働いているとは限らない。私はここで、ADHDや発達障害、あるいは他の人々について理解し配慮してほしいと言おうとしているというよりは、むしろ、クソなアドバイスを得意げに話して、なんの役にも立たない叱咤激励をする、愚かな人間について嘆いている。そして、そのようにならないために、未来の自分と読者のみなさんに記録を提供するために、知恵を絞ってこの記事を書いている。

対処法の選択と、目標設定

「タスクの自動選択と意識的な受け入れ」に慣れていった結果、私は「動的な計画を持ち、柔軟に行動するのがよい」という新しい目標を持つようになった。これは、新しいテクノロジーの登場によって、人々のライフスタイルが変化するのに似ている。スマートでミステリアスなカーナビの登場により、〈意識的な私〉は、事前に手動で緻密な計画を立てる必要性から解放された。それによって、予期できない状況下でも柔軟な行動が可能になり、さらには気楽なドライブで周囲の景色を楽しむ余裕まで生まれたのだ。

この変化は予想外だった。一般に、ADHDを持つ人々は緻密な計画を立てることが苦手な一方で、即座の判断や創造的なひらめきに長けていると言われる。私も同様に、緻密な計画を立てることに苦労していると感じ、日常生活における困難さや「人生がうまくいかない感じ」の原因は、計画性の欠如にあると考えていた。それで、服薬治療によって苦手を克服し、緻密な計画が立てられるようになることを期待した。しかし、インチュニブのもたらした変化は違った。苦手を克服するのではなく、長所を有効に活用するという対処法である。

ここで本来の目的に立ってみる。ADHDの治療の目的は、日常生活の困難さを減らし、生活の質を向上させることにある。この目的のためには、存在しないスキルをゼロから構築するよりも、既に備わっている強みを最大限に活用するほうが、はるかに効率的だ。目的が達成された状態を「いい感じの状態」と定義するなら、それは必ずしも「定型発達のような状態」とは限らない。そういうわけで、私は、事前に緻密な計画を練る代わりに、大まかな目標を設定し、あとは自分の直感と即座の判断を信じて行動するようになった。このような対処法によって、日々の暮らしはよりスムーズに、充実したものへと変わり始めている。

この記事で書いた、ADHD的な問題に服薬とADHD的発想で対処する模索の記録が、ADHDを持つ(あるいはその傾向がある)人々と、その周りにいる人々にとって、何か参考になるといいなと思う。また、これは問題解決という普遍的な事象の一つの例であり、固定観念にとらわれずに本来の目的に立ち返ることで、新たな解決の糸口が見えてきたという、ありがちな話でもあると思う。

めちゃくちゃ長い記事になりましたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。ご感想やご質問は、コメント欄と各種SNSで受け付けています。この後、インチュニブ服薬レポートは、何回かに分けて続けるつもりです。薬の量を調整した過程と、その間に自分の中で起きたパラダイムシフト、他人の意見に惑わされずに自信を持てるようになった話などを予定しています。