アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

ストラテラの静寂、インチュニブの動力【後編】

ADHDの薬の話をします。取説のない機械のつまみをひねって、どうなったのか。

前編では、薬を飲まないときの脳みそは、嵐のなかの小舟のようなもので、転覆せずにどこかの島へ行く(タスクをやりとげる)には、嵐を静めるか船を強くする必要があるという喩えを使いました。 そして、ストラテラを飲んだら嵐が静まり、集中力が上がった!自分の気分の変化に気づけるようになった!という話を書きました。

isomocha.hatenablog.com

前編に少し思い出したことを追記しました。

今回後編は、インチュニブで船が強くなった話です。屋根も壁もエンジンもある立派な船なのですが、舵がない! どこの島に行くんだろうね!!やばい!!!というオチ。

インチュニブの効果

5mgまで増やして、ようやく効果がわかってきた。量が少ないと、効果がほとんど感じられないっぽい。
今年の6月から飲み始め、じわじわ量を増やしてきたところなので、まだ完全には把握できてないけど。

動けるようになった

たとえば、風呂に入れる。ご飯が食べれる。あるいは、ベッドに入るために薬を飲むために立ち上がってキッチンへ行って水を汲むことができる。ストラテラでは「未来が見えるから、動きやすい」みたいなところがあったけど、インチュニブではそういうのじゃない。「やるから、やる‼️」という、論理を超えた何かが来た。

シャワーを浴びようとするとき

  • 従来版ピジェ:「今ネサフで忙しい。っていうか洗濯しようと思ってたんだけど、もう23時だし明日にしようか?パンツが無い。振込み、今日もできてないな、シャワー浴びたら出かけられないし、うー」
  • ストラテラ版ピジェ①(いい感じに効いてるとき):「シャワー浴びたら、ネサフの続きをやろう」
  • ストラテラ版ピジェ②(ダメな感じに効いてるとき):「シャワーを浴びたら濡れてしまう。乾いている状態から濡れている状態に、変化したくない」
  • インチュニブ版ピジェ:「シャ‼️」(服を脱ぎ、風呂場の扉を開けている)

他の例。シーツと掛け布団カバーと枕カバーを交換して洗濯するのが、面倒で苦手だ。2ヶ月に1回ぐらい、渋々やってた。どう面倒かというと、ベッドと布団カバーはでかいので、たくさん体を動かさないと交換できない。それに、洗って干すときも、服を定期的に洗濯するところに割り込むから調子が狂うし…(ストラテラで得た、未来を見る能力&感情を表現する能力による記述)
それが、インチュニブでは「シ⁉️」と思った次の瞬間にはシーツ剥がし始めてて、その流れで完了までいってしまう。エンジンついててゴーーーって運ばれていくので、面倒だ〜とか考える余地がない。

というふうに、動けるようになった。なんかライフハックとかが必要のない脳みそになってしまい、再現性がない。

なお、最初に書いた「あれもこれも」と焦ってしまうという困りごとについては、

やりたいこと・やらなければならないことがたくさんある状況で、あれもこれもと焦って目の前のことに集中できない。 怠け者の根性なしではなかったっぽい - アイソモカ

任意のどれかが勝手に選択されて、実行されてる。優先度は、知らん。
最初に「舵がない」と書いたのは、自分でタスクを選択している感覚がないということだ。「勝手に選択されて、勝手に動いてる」のが、怖い。制御不能な力に対する恐怖がある。

後で「課題」のところで書くけど、舵がないので、自分が行きたいと強く思ってるわけではない場所へ運ばれていってしまうことがあり、ヤバい。

とはいえ、何も選べないよりはマシなのでは?とも思う。次に書く「ま、ええわ!」とも関連している。

性格が変わったが……「ま、ええわ!」

たいていのことは「大丈夫、なんとかなる」と思う、謎の自信が湧いてくる。
世界はうるさいが、それらを気にしなくてすむ強さを手に入れた(嵐の中の小舟の喩えでは、屋根も壁もあるので、風雨をしのげるという点)。

性格が大雑把になった。元々大雑把なところがないわけではないと思ってるけど、繊細さが消失した。

元々、自分はけっこう繊細なほうなんですよね?(と思うよね?)
ストラテラで世界が静かになると、不安や不快さが強めに現れてくる(認識しやすくなる?)部分があったと思う。たとえば、前に書いた「シャワーを浴びて濡れ状態になるのを想像すると、身がすくむ」みたいな不安が、認識されたりする。(実際、元々そこまでの感覚過敏があるわけではないので、濡れること自体は大したことではないはずなのだが、不安というのは特に根拠がなくても発生する。体を拭くのが面倒とかは、ある)
そういうのが、どうしてそんなに嫌だったのか、全く理解できない。いや、記憶はあるので、「頭では理解できるけど、感覚としては理解できなくなった」と言うべきかも。
「シャワーを浴びたら濡れるでしょう、そりゃもちろん。べつによくない? なにがそんなに嫌なの?」(常人並の感想)

また、この「ま、ええわ!」は、前編で少し書いた「頭の中の鬼上司」にも効く。

「頭の中に鬼上司がいる」というのにも気づいた。寝ようとすると「あれ、終わったか?」と聞いてきて、寝られなくなるやつで、頭の中にいる概念存在。 ストラテラの静寂、インチュニブの動力【前編】 - アイソモカ

インチュニブが効いていると、「終わってないが⁉️明日なんとかなる‼️ 寝る‼️」と、バッサリ切り捨てている。それでベッドに入りやすくなった。

ところで、インチュニブの効果についての一般的な説明で、「落ち着く」というのがある。
最初の一番大きな困りごとの「やりたいこと・やらなければならないことを考えると、あれもこれもと焦る」というやつでは、たしかに焦りは消失した。勝手にどれか選ばれ、それを「まあ、ええか!」と思えるというのが、ある種の落ち着きなのだろうか。
「落ち着き」と聞いて想像したものとはだいぶ違ったけど、そうなのかもしれない。「自分を外から見ると落ち着いたように見える」ということかもしれない。

座って「んー」ってやるの便利

座って「んー」ってやるの、実用的なんだ!という発見があった。というのは、頭の中だけで、ある程度の考えが組み立てられるようになったということ。以前はノートに書かないとできなかったレベルの思考整理が、ノートを使わなくてもできる。
歩きながらでもできるし、めっちゃ便利。

インチュニブで顕著になった課題

舵取り(タスクの選択)が困難だということと、エンジンついててゴーーーって運ばれていったら止められない!というのが一番の課題。

入眠の失敗

3mgのとき。

強い気持ちで夜更かししてしまう。寝なくても大丈夫だという謎の自信が湧いてくる。そういうわけで、布団の中での読書が捗ったり、深夜に仕事の続きをやったりと、眠れない日が続いた。このツイートは3mgのときで、5mgに増やした現在は、解消されつつある?かもしれない。

他人事感(たにんごと-かん)

インチュニブでは、「やりたいこと・やらなければならないことの中から、任意のどれかが勝手に選択されて実行されている」が発生する。それが、今本当にやるべきことからズレているのでは?と思っても、方向を変えられない。そして、「ああ濁流に流されていく奴がいるなあ、どうなるんだろうなあ」って見てる感じになる。

これが長く続きすぎると、精神の具合が悪くなる。「ま、ええわ!」では収まらないレベルになるとまずいってことっすね。次で詳細を書く。

注意の貼り付き、あるいは祭

5mgのとき。

前回ちょっと紹介したポッドキャストで、「祭」について話した。この祭が、大規模に発生する。止められない。

この「祭」は別名、「注意の貼り付き」とも呼ぶ。(どちらも造語だが、ポッドキャストでは「祭」と呼んでいて、自分はその前から「注意の貼り付き」と呼んでいる)

これは、たとえば、突然「Gmailの連絡先からしばらく連絡とってなくてこの先も連絡とらないだろうし、そもそも携帯番号が有効かどうかもわからない(メールアドレスはもう変更されているだろう)連絡先を削除する」というのを、数時間かけて、やらないではいられなくなるようなことだ。(比較的小規模の祭)

人は、注意を切り替えながら生活をやっている。ブログに注意を向け、お茶を入れることに注意を向け、仕事のメールに注意を向ける。そういう注意の切り替えがうまくいかず、ひとつのことに注意が向き続けるのを「注意の貼り付き」と呼んでいる。「過集中」と呼ばれるものに近いのかもしれないけど、なんかのプログラムをガッと書くみたいな過集中はストラテラでも、それ以前でもごく稀に発生していたように思うし、過集中は何週間も続かないイメージがある。よくわからない。

実をいうと、この10月の半ば、先々週から今週前半にかけて、生活と仕事がかなりおろそかになるレベルの、大規模な注意の貼り付きが発生していた。仕事の進捗がふるわず、1週間ぐらいほとんどTwitterも見なかった。(ツイ廃のみなさんには、この重大さが伝わるだろうか?)

注意の貼り付きが剥がせないという、新しく発生した不具合にかなり戸惑い、精神の具合も悪くなっていた。(クソデカい圧倒的な「「「力」」」の前で、無力しかないというタイプの、具合の悪さ)(具体的には、起きたけど布団の上で宙を見つめていて、飯食って布団に戻り、宙を見つめるのの続きをやり、うとうとして、目が覚めてまた宙を見つめ……みたいな)

祭、注意の貼り付きは、数週間、頭の中をそれでいっぱいにし続けたいほど、自分にとって価値?興味?のあることだと思っていたわけではない。どうしようもない、不可抗力。むしろ、発達障害みのある困りごとなんじゃねーか?と思ったりもする。

具体的にどんなことに注意が貼り付くのかというと、「マーダーボット・ダイアリーの世界で、ある従業員が会社の警備ユニットを盗んでふたりで逃避行するブロマンスが読みたい。どんなストーリーとディテールになるのか」を考えていた。考えただけじゃなくて、2万文字ぐらい書いた。2週間ぐらいやったあと、「いや、オリジナルの登場人物を考えるなら、世界設定から自分で作って普通に小説を書いたほうがいいはずだな」と思った。その辺りで祭が終わり、注意が剥がれた。終わった後の今、なんか、とても、しょうもないと思う。初めての経験だった。

狂人だと思う。

祭が終わって注意が剥がれたら、普通に仕事ができるようになった。よかった。
しかし、驚くことに、その注意の貼り付き期間中にも、コロナワクチン4回目接種に行ったり、だいたい毎日シャワーを浴びたりはできていた。仕事もしているふりをしていた。友人と遊ぶ予定はキャンセルにしてもらった。何ができて何ができないのか、よくわからない。

このような大規模な注意の貼り付きを剥がすことが、慣れでどうにかできる問題なのか、不明。
小規模の祭なら、今まさに「記事を書き上げるまで注意を保っておく」程度に役に立つので、規模や期間、どこに貼り付けるが、制御できたい。

身体的な副作用は特になさそう

インチュニブ服用前に、心電図の検査を受けた。異常なかったので、飲むことになった。

血圧が下がると言われたが、ストラテラで頻発していた立ちくらみは、インチュニブでは発生していない。

昼間眠いことがあるが、寝不足で眠いのレベルで、副作用ではなさそう。(自分はインチュニブは就寝前に飲んでいる)

インチュニブの残課題

インチュニブででかい課題が発生していることは既に書いたが、以前の脳みそからは特に変わらない課題もある。
ストラテラではマシになったがインチュニブでは変わらない、というものもある。

なんか、よく言う「ADHDっぽさ」が強まってる???という気もする。

段取りができない、慎重さがない

未来が見えてない状態なので、「明日の荷物を準備する」とかは、できない。準備しなくても、明日の朝なんとかなる気がするんだよね。

実際にはなんとかならないので、忘れ物をする。忘れ物をしても、基本的には「まあ、いいか」ってなる。

夜更かしして寝坊して、通院の予約の時間に行けず、翌週にリスケしてもらったりする。なんか大丈夫な気がするので、堂々と予約変更の電話をかけられるのが、インチュニブ的なのだが。

祭の期間中に、遊ぶ予定だった友人にキャンセルの連絡をしたんだけど、そういうのが「計画性では?」と言われた。無連絡ブッチではなく、あらかじめ連絡できるのは、計画性っぽいのか?
自分の中では「今注意が貼りついている以外のことは、バッサバッサ切り捨てます」で、場当たり的な対応だな〜と感じているんだけど。(まあ、混乱せずに捌けるのは、捌けたほうがいいよね)

「思い出し」はポップしない

シャンプーを買い忘れ続けた。風呂に入る直前に、マジで1滴もないことに気づいて(服は脱ぐ前)、ゴーーーって強いエンジンに運ばれてドラッグストアに行ったりする。特に問題ない。

掃除は、ランダムに当たれば

気まぐれで、掃除機をかけたり片付けをしたりする。まあ、それでかまわない。

まとめと今後:薬だけで全てが良くなるわけじゃない

ストラテラが効いている状態では、雑音が減り、一般的なライフハックや効率化ツールがうまくいく可能性が上がった。インチュニブでは謎の動力が手に入った。しかし、薬だけで、生活や仕事や人生の全てが良くなるわけじゃない。

薬を飲みながら、自分の脳みその使いこなしかたを模索したり、色々な工夫を試していくのが良いのだろうな〜と思う。なので、これからも模索していきます。

おまけ:性格とか、やる気とか、信じられなくなった

風呂に入れなかったときの自分を、「感覚としては理解できなくなった」と書いた。色々と心配したり真剣に悩んだりしていたときの自分と、インチュニブが効いてからの「まあ、べつによくね」って言ってそれほど気にしなくなった自分は、だいぶ性格が変わったと思う。それに、行動するときに「やる気」とかないんだな(最初からなかったけど)とかも思う。

似たような話を読んだことがある。 【3868】コンサータによって自己の連続性を失いつつある | Dr林のこころと脳の相談室 薬を飲んでいる時と、飲んでいない時の自分は、どっちが本当の自分なのか? こころは物質から生まれているのか? …これ、わかりたいなあ〜と思ってたんだけど、まだわからないんだよね。
や、わかってるのかな? 「本当の自分」を考えるのがそんなに面白い気がしていない。そして、物質でしょ、以上。とぼくは考えているのか???

なんか、自己の連続性ってもっと他のところにあるんじゃないかと思うんだ。というのは、自分の性格や世界についての感覚がいくら変わっても、冷蔵庫にあるキャベツを食べてよいし、食べたほうがいい。自分の生活している部屋は自分の部屋であり続け、家族や友人や職場の人は「同じ人」として扱い続ける(自分が生活している部屋は自分の部屋であり続けるのも、マンションの管理会社がぼくを「同じ人」として扱い続けるからだと言える)。そして、ぼくはそれを受け入れている。
それで、自己の連続性っていうのは、こころの問題ではなく、人間関係、社会のなかにある気がする。自分が過去に明示的・非明示的に約束したこと(この部屋に住む、この会社で働く、あなたのともだちになる、…)を果たす責任から、逃れられないと思い続け、責任を負い続けるかぎり、自分は自分なんじゃねーか? というように。アイデンティティの話でちらっと見たことがある(けどよくわかってない)「引き受ける(assume)」に近いんだろうか。

フォロワに本 ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう: 意識のハード・プロブレムに挑む をおすすめされたので、読みまぁす❣️