3連休にやったこと
「はじめての言語ゲーム」を読んだ
先日お会いした自然言語処理の方にいただいた、ヴィトゲンシュタインの入門書を読んだ。
読んでる👉 はじめての言語ゲーム (講談社現代新書) | 橋爪大三郎 |本 | 通販 | Amazon https://t.co/DlV1BcAA6P
— ピージェイ 𐀠𐀋𐀂 (@xiPJ) November 3, 2019
「言語ゲーム」というのは、
人びとの感覚が一致しているから、言葉の用法が一致する、のではない。言葉の用法が一致しているから、人びとの感覚が一致しているという確信が生まれるのだ。(この確信は、確かめようがないから、錯覚のようである。しかし、間違っていることを確かめられるわけでもないから、錯覚とも言えない。)
人間たちは、このようなルールに従って言語を使っているという。 そして、
私たちは、誰もが言語によって思考するわけだが、そのことによって、世界に開かれているのだ。
というように解説されている。理解力と国語力がなくて要約できない。
分かるような分からないような、という感覚で、実際このタイプの解説書はヴィトゲンシュタインの主張だけではなく後世の解釈や筆者の主張も入っているわけで。
感想
少なくとも、ぼくはこの筆者の主張には完全には同意しないなと感じた。たぶん、土台とする価値観(人間とは、言語とは、という物の見かた)が違うような気がする。そこをはっきりさせるのが哲学じゃないの?
人間と言語は特別ではない
- まず、人間が動物とは違うって確信しているの、素朴すぎへん?
- 何が人間を人間たらしめるかというのは興味深いテーマやけど、言語と人間性を関連づけるのは、危険な思想ちゃうやろか。 ことばが分からないなら人間じゃない、あるいは、我々のことばが使えない人は我々の社会に入れないって考えにつながらへん?
- ことばは世界を記述するものやなくて、頭の中にあるものでもなくて、ホモサピ同士の相互作用の道具のひとつやろ。
- 人間は言語によって思考しているというのは、だいぶ素朴な考え方やなあ(ちゃうやろ)。
人びとの感覚は一致していない
- 錯覚やと思うわ。だいたい一致してるから社会生活営めるんやろうけど、完全に一致してたら誤解とか生まれへんやん。
- 私以外私じゃないの。人びとの感覚が一致していないから、私は私なの。
- 生物は、1匹ずつちょっとずつ違うからこそ、ここまで進化してきたわけで、多様性が重要。ことばにも多様性がある。言語や方言というバラエティだけではなく、オカンとぼくの使うことばすら違っている。
- ちょっとずつ違うのに、どうしてことばが通じると思っているのかという点では、「人びとの感覚が一致しているという確信」がうまくはたらいてんのやろな(ここは、「言語ゲーム」合ってるやんって思うとこ)。
- 感覚が一致していないから、「この人の考えを理解したい」っていう人間みが生まれるし、私以外私じゃないという自分が認識できるんじゃないの?
「みんな違うよね」で終わるつもりはない
- 現代の言語の中で、あるいは言語の進化の過程で、多様性がどのような役割を果たしているかというのは、興味深い。我々はどんなことばを使うか、意識的にも無意識的にも選んでいる。
- 物を作るときにも、ばらつきを認めることにより、厳密さが得られる。「限りなくまっすぐにしてください」と言うのではなく、「水平度はこの値で、平面度はこれこれとする。公差はいくらまでを許容する」と指定することで、精度の高い物が作れる。もちろん、目的を果たすために必要な精度を知っておく必要もある。だから、ことばを工学するなら、言語がうまくはたらくのはどういう範囲なのか、どうなるとうまくはたらかなくなるのかを知っておく必要がある。
- 科学的にも工学的にも、感覚の不一致の度合いと影響が重要なんちゃう?
あーぼく哲学やるのに向いてないんかなあ。
モニタ台材料の塗装
PCモニタやスピーカーなどを置く台を作っている。先週、台の脚をあまりやすりがけせずにワトコオイルを塗ったら、木材加工時についたと思われる線が変に浮き出てしまった。なので、60番から順にやすりがけして、それなりにきれいに塗れた。
今日は台の天板の大きい板をやすりがけして、ワトコオイルを塗った。オイルの入ったカップを倒してしまうというヒヤリハットはあったけど、きれいに色づいているっぽい。