アイソモカ

知の遊牧民の開発記録

お母さん、彼女と食事に行くよ

日本語教育第二言語としての日本語の補助教材でこの課を勉強しようとして、あーヤベッってなった話。 f:id:piijey:20220108233043j:plain

このブログの読者は日本語ネイティヴネイティヴ並みに日本語を読めるひとたちだと思うので、この問題は簡単に解けるだろう。じゃあ、どうやって解くんだ?

人は読み手と書き手の属性に統計的に尤度の高い属性を仮定して読むかもしれないけど、選択肢がない限り、読み手と書き手の属性は一意には決まらないんだよな。ここで尤度の高い属性っていうのは、

  • 子どもにおやつを用意するのはお母さんの役割である
  • 「彼女と食事する」人は、男性である

みたいな、性別役割意識や異性愛規範が背後にある。

ここで、日本語教育支援者が「『彼女と食事する』と書いた人は男だから〜」と当然のように言ってしまうと、彼女がいる女性や彼氏がいる男性、彼女がいるノンバイナリーの人、そういう人たちの友人や家族、etc. である学習者は「わたしたち/わたしたちの大切な人たちは、この支援者の中には存在しないのだな」と辛く感じるだろうなと懸念した。

さらに、性別役割意識と異性愛規範から離れて改めて考えると「息子がお母さんのためにおやつを用意する家庭もあるかもしれないじゃん!」「子どもが夕食を作る家庭で、サッカー好きのお母さんが彼女と食事に行くかもよ?」とも思う。 やっぱさっきの、『選択肢がない限り、読み手と書き手の属性は一意には決まらない』と書いたのは間違いだったか。選択肢があっても一意には決まらないんじゃないか。

第二言語を学習するとき、われわれは既に持っている世界知識を活用できる(既に持っている世界知識を活用しなければ、フルタイム赤ちゃんを再度やらなければならないだろう)。 しかし、活用しようとする世界知識に有害なバイアスが含まれているとき、その世界知識の活用を避けたほうがいいんだろうな。どの程度?どのように?

この補助教材を見て「〜てある」「〜ておく」を勉強しながら、学習者と「子どもにおやつを用意するのはお母さんの役割なのか?」「彼女がいる女の人もいるよね」といった話ができたらそれはそれで良いのかもしれないけど、言語能力と信頼関係が必要だよね。

誰の存在も否定しないために、予習して色々考えていかないといけないな。

話は少しずれるんだけど、

男/女のジェンダーに疑問を感じノンバイナリーを自認する自分も、学習者として「この先生の中にはわたしがあてはまる分類がないんだな」「教科書の中にわたしを表すことばがない」と思ったことがある。具体的には、

  • 断りなくMs. を付けて呼ばれたり、she で参照されたりする
  • étudiant か étudiante の二択からの選択を強いられる

というようなとき。 ちなみに、ぼくは英語の敬称は -san(あるいは Mx.)、代名詞は they を使ってほしいです。(Dr. を使えるようになりたいわね)

(クローズドで働いている職場では多少のミスジェンダリングは我慢するものの、)私的な時間に自主的に勉強しようとしても、楽しく会話できなければ、毎週その先生と話そうとは思えないんだ。 新しい言語を学ぼうとして、その言語で自分を気持ちよく表現できなかったら、学ぶモチベーションが無になってしまう。

ひととコミュニケーションして言語を学ぼうとするとき、こういう難しみがある。